空想と脆い現実
例えば非現実な絵を見て、我々はこれを現実世界の写実ではなく、
空想の、言うなれば現実世界を基にしたファンタジーだと捉える。
しかし、確かにこうした捉え方は間違いではないが、
必ずしも正しいというわけでもない。
というのは、我々が世界を現実か、非現実か判断する時、
その判断は我々の経験則に基づいているからである。
この経験則というのは、未来を見通す超越的な方法でも、
世界の真のあり方を把握する方法でもない。
経験則とはあくまで過去の経験の積み重ねの産物であって、
未来を見通すことや真なる世界を把握する一助になり得ることはない。
過去ある惑星が月以上に大きく見えたことはないし、
夜空が真っ赤になったことはない。
我々はこうしたことを幾重となく経験してきたことによって、
経験則によって常識的な世界を独自に構築し、
それから外れる世界のあり方を非現実的で、
ファンタジーな世界であると認識する。
しかしこれは先述したように、
単に経験則に則って判断されているに過ぎず、
絶対的に正しく、真理な世界ではない。
経験則とは積み重ねでしかなく、
それによって信じられ世界というのは、何らの裏付けも為されていない。
最終的にここで何が言いたいかというと、
今見ている、感じている世界は絶対的に正しいということはなく、
過去それ以外があり得ていなかっただけなのである。
世界は絶対性をもって存在するのではなく、消去法的に我々の眼前に屹立しているだけである。
経験は目的をすり替える
例えばトイレに行くとする。用を足しトイレから出る。
トイレに入る際、そこまで暗いと感じなかった為、電気をつけなかった。
しかし私は、トイレから出るときに電気のスイッチを押した。当然トイレの電気はつく。
ではこの時私は何をしたのか?
何が言いたいかというと、本来電気がついていなければ、
スイッチを押す必要はない。だが私は反射的にスイッチを押した。
ここには既に、本来の行為の目的が消滅しているのではなかろうかということである。
消滅という表現より、すり替えが妥当かもしれない。
何度も同じ経験をすることで、いつしか行為の目的は薄れ、
その行為自体が目的となってしまう。
例で言えば、トイレから出てスイッチを押すことを何度も経験することで、
本来電気を消すことが目的だったものが、その目的は次第に変化し、
スイッチを押すこと自体にすり替わっていったのである。
以上のことからわかるのは、
反復的な行為はいつしかその行為の目的のためには存在しなくなり、独立する。
自己自身が目的と化し、そこに何らかの別の目的が存在しない場合であっても
その反復的行為は果たされるようになるのである。
ここではトイレのスイッチを例に挙げたが、
日常生活にはこうした事柄はたくさん転がっており、
少し視点を変えて物事を観察してみると案外意外な発見が見つかるかもしれない。
善悪について
物事における善し悪しとは何だろうか。
すぐに思い浮かぶものと言えば、
窃盗などの犯罪は悪と分類され、
一方でボランティアと言った人助けは
善に分類される。
これら善悪の判断は何に基づくのか。
それは、その行為の受ける社会的評価と時代背景による。
現代社会において、人殺しやカニバリズムは歓迎されるものではなく、
排斥され非難される行為であり、施しや気遣いは良いこととして
評価され、歓迎される。
しかしこれらの間にどれぐらいの違いがあるだろうか。
いずれの行為の核心にも、自己の願望に従ったという事実が共通している。
行為の根源的理由はどれも同じなのである。
犯罪もボランティアも自分がしたいからしただけであって、
行為の瞬間に善悪の概念は差し挟まれない。
行為の価値は後から決まり、行為は純粋な自己の願望によって成就する。
ただ注意して欲しいのは、だからと言ってこの文章で犯罪等を推奨しているわけではない。
哲学は常に常識を疑うものであり、その議論の中で出される例えに過ぎない。
私もひとりの人間として犯罪はあってはならないことだと思うし、そうした行為は行わない。
では、行為がそうした理由によってなされる時、何が善で何が悪となるのか。
社会的、時代的影響を受けない絶対的な善悪は存在するのか。
また、自己の願望に従って行われた行為は、自己中心的と言った理由で悪と評価されるのか。
これらについては次回で考えていきたい。